俺のログには何もないな

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プレイの指摘

 カジュアルに楽しんでいるプレイヤーの配信を見ていると、プレイに指摘するコメントが付き、配信の雰囲気が悪くなるといったことが度々起こる。

 配信に限らずとも、コアゲーマーとカジュアルゲーマーのゲームに対する意識の差から衝突が起きることは珍しくない。

 

 自分はどちらかというとコアゲーマーの方なので、ゲーム外での情報収集も積極的に行っている。

 その一環として他プレイヤーとの交流、プレイ動画や配信の視聴もよくするが、コミュニティの中でそういった言い合いに遭遇するたびに辟易とした気持ちになってしまう。カジュアルゲーマーに対してではなく、コアゲーマーに対して。

 

 ゲームのコミュニティにおいて、基本的には実力が高いプレイヤーの方が発言力が強い。当然コアゲーマーの方がゲームについてより深い知識を持っているのでこの考え自体は妥当だと思うが、だからと言って実力が高い方が偉いとは思わない。 

 

 指摘自体は正しいことも多い。自分自身、配信を見ていて気になるときもあるし、必要を感じたらコメントなどで伝えることもある。

 だから、「指示厨」と言って全部の指示コメントを否定するつもりはないが、波風を立てないように場所と言い方をよくよく選んでほしいという思いがある。

 

 自分の考え方の基盤となっている物の一つに、江戸中期の武士の 発言を編纂した”葉隠”という書物があるが、その中で批判の仕方についても触れられている。

 

人に意見をして疵を直すと云ふは大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候。
意見の仕様、大いに骨を折ること也。人の上の善悪を見出すは安き事也。それを意見するも安き事也。
大かたは、人の好かぬ云ひ憎き事を云ふが親切の様に思ひ、それを請けねば力に及ばざる事と云ふ也。
何の益にも立たず。人に恥をかゝせ、悪口すると同じ事也。我が胸はらしに云ふまで也。
意見と云ふは、先づその人の請くるか請けぬかの氣をよく見分け、入魂になり、此方の言葉を兼々信仰ある様に仕なしてより、好きのなどより引入れ、云ひ様種々に工夫し、
時節を考へ、或は文通、或は暇乞などの折か、我が身の上の悪事を申し出し、云はずしても思ひ當たる様にか、
先づよき處を褒め立て、氣を引立て工夫を碎き、渇く時水飲む様に請合はせ、疵直るが意見也。殊の外仕にくきもの也。

 

(訳)

意見してその人の欠点を直す、ということは大切なことであり、慈悲心とも言い換えられる。(中略)ただ、意見の仕方について骨を折る必要がある。

他人のやっていることに対して善悪を探し出すというのは易しいことで、また、それについて批判することも容易い。

大方の人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切のように思い、それが受け入れられなければ、力が足りなかったとしているようだ。

(中略)

意見というのは、まず、その人がそれを受け入れられるか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらの言うことを、いつも信用するような状態に仕向けるところから始めなければならない。(中略)余計なことは言わなくても思い当たるように仕向けるのが良い。

(中略)

のどが渇いたときに水が飲みたくなるように考えさせ、そうした上で欠点を直していく、というのが意見というものである。意見というものは、殊の外し難いものと言える。

 

 

 ゲーム内での指摘について、自分は極力、質問されたときに返すか、または予め提案するような形で伝えるのみに留めている。あとから結果を見てプレイを咎めるようなことは控えたい。

 

 ゲームの勝ち負けやミスプレイをするかどうかよりも、知り合いとゲームを楽しめるかどうかの方が自分にとっては重要なので、 今後も付き合いが続くような交流を心掛けていきたい。

 

 

 

引用元

葉隠

原文 葉隠原文Web

訳 葉隠入門 新潮社