戦国武将のちょっと面白い話
個人的に面白いと思う話を3つ!
・毛利家四男、穂井田元清
戦国時代の毛利家と言えば有名なのはやっぱり毛利元就
現在の中国地方の広島県に当たるところに産まれます
室町幕府有数の名家四職であり、戦国時代の幕開けとなる応仁の乱でも中心的な役割を担った山名家、周防守護職であり最盛期には6か国を支配した大内家、同じく出雲の守護であり中国地方8か国をも支配した尼子家
を相手に、
たった2万石の国人から毛利元就1代で中国地方のほぼ全域、180万石にまで領土を広げた戦国時代屈指の名将
領土拡張率では天下人である3英傑(織田、豊臣、徳川)を除けばトップだとか
1織田信長 1551年 4万石 800万石 200倍
2毛利元就 1523年 2万石 180万石 90倍
3長宗我部元親 1560年 2万石 80万石 40倍
4三好長慶 1532年? 10万石 200万石 20倍
5島津義久 1566年 15万石 180万石 12倍
そんな毛利元就といえば3本の矢の教訓が有名ですね
毛利元就の長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に「1本では容易く折られてしまう矢でも、3本束ねれば簡単には折られなくなる。兄弟3人で協力し合うように。」と説いたという逸話があります
ここまではいい教訓ですが...
実は毛利元就の子供は3人だけではありません
見出しに書いた四男穂井田元清以下、男児だけで六人もの子供を授かっています
そうなると彼らの扱いが気になるところですが...。
なんと毛利元就から虫ケラ呼ばわりされていました
元就の正室の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の兄達が元就から大切にされたのに対して、元清を始めとする側室の子達は、父から「虫けらなるような子どもたち」と表現されている。しかし粗略に扱われたわけではなく、「もしこのなかでかしこく成人するものがあったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境などにでもおいてほしい」とも依頼している。一方で「たいては、まぬけで無力なものだろうから、その時はどのようにされてもかまわない」とも述べており、そこには正室の子と側室の子を明確に分ける元就の配慮が読み取れる(『三子教訓状』)。 (wikipediaより)
(´・ω・`)
逸話の元となった三子教訓状が書かれた当時は元清らがまだ子供だったそうなので、能力を低く見られたわけではなさそうですがかわいそうですね;;
さすがに同情する()
なお穂井田元清本人は立派に育ち現在でも評価されており、名実ともに虫けらとなる事を免れた模様
よかったね、おめでとう(小並感)
・謀聖、尼子経久
次は尼子経久
先ほど毛利家の話で少し触れた尼子家の当主
その最盛期を築いた武将で、地位を追われているところから復権、主家から独立し下剋上を成し遂げ、戦国大名へと成り上がった武将です
権謀術数に長けており、梟雄の梁山泊と言える中国地方において、毛利元就、宇喜多直家らと共に中国の三大謀将と称されます
また、最盛期の絶大な影響力から十一ヶ国太守、知略を駆使して尼子家を大大名へとのし上げたところから謀聖とまで言われます
謀には「計画をたてる。あれこれと方法手段を考える。はかりごと。」
聖には「知徳にすぐれ、尊敬される人。」という意味があり、
謀聖という字面もかっこよく厨二心をくすぐられて好きです
さて、そんな謀聖にはもう一つあだ名がありました
それは「天性無欲正直の人」というもの
経久は自分の持ち物を褒めた家臣に対して、その持ち物がどんなに高価な物でも渡してしまう人物だったそうです
少し褒めるだけでどんなものでも渡してくるので、家臣は気を使い褒めないようにしていたようですが、ある日
「これはさすがに大丈夫だろう」
と庭に植えてあった木の枝ぶりを褒めたところ、経久はその場で掘り起こして渡そうとしてきました
家臣は慌てて止めてましたが、経久はそれでも諦めず、後日その木を切って薪にして渡してしまいました
えぇ...(困惑)
枝を褒められて薪を渡しちゃうようなところがかわいいと思った(適当)
・島津家、木崎原の戦い
最後は九州の島津家
島津と言えば特に4人の兄弟が有名(長男島津義久から、義弘、歳久、家久)
兄弟が有名という点では毛利家と少し似ています、毛利とは違いちゃんと(?)4兄弟ですが
島津に暗君無し、と言われるほど一族揃って名将揃いの島津家ですが、彼ら4人の兄弟は特に際立った存在でした
今回話すのは、兄弟の中でも武勇に優れる次男・義弘が活躍した木崎原の戦いです
時は1572年、織田信長が尾張から領土を広げ、頭角を現し始めたころ
当時はまだ小さく、薩摩一国程の領土しか持たなかった島津家は、大隅(鹿児島県東部)の肝付家、日向(宮崎県)の伊藤家と対立していました
まず肝付家が島津へ侵攻を始め、これを好機と見た伊藤家も島津家の領土へ攻め入りました
この時伊藤家が攻めた城、の隣の城に居たのが島津義弘でした
義弘は味方を助けるために兵を引き連れて出陣しますが...
敵味方の兵力差は島津家300人に対し伊藤家3000人
普通に戦っては勝ち目がありません
ここで義弘は300人の兵をさらに3隊に分けました
一方の隊で攻められていた味方の城に入り伊藤軍を後退させ、引いたところに義弘本隊が攻撃した後、すぐに撤退
それを追撃してきた伊藤軍をすかさず3隊で包囲、さらに島津の援軍として駆け付けた味方の部隊もこれに加わり伊藤軍は混乱
そのまま伊藤家の兵たちは逃走し、見事島津家は10倍の兵力差の相手に勝利を収めました
が、島津家の損害も大きく最初300人いた兵のうち257人が死亡
生存者がたったの43人という...
開戦時の兵力の9割を失いながら勝ったという戦いは世界を見てもそうそうないんじゃないでしょうか
味方のほとんどが死んでいく中逃げなかった43人はバーサーカーか何か?
それに比べて伊藤軍の死者は810人(くさそう)
これだけだとそれ程酷いように思えないですが...
軍の指揮官である武将の戦死者を見比べてみましょう
島津家主要参戦武将(赤色が戦死者)(wikipedia参照)
■島津義弘 ■鎌田政年 ■上井覚兼 ■宮原景種 ■川上忠智 ■遠矢良賢 ■村尾重侯 ■五代友喜 ■鎌田政近 ■黒木実利 ■町田忠辰 ■西田武蔵守 ■赤塚重増 ■樺山浄慶 ■富永万左衛門 ■新納忠元
↓
■島津義弘 ■鎌田政年 ■上井覚兼 ■宮原景種 ■川上忠智 ■遠矢良賢 ■村尾重侯 ■五代友喜 ■鎌田政近 ■黒木実利 ■町田忠辰 ■西田武蔵守 ■赤塚重増 ■樺山浄慶 ■富永万左衛門 ■新納忠元
伊藤家主要参戦武将(赤色が戦死者)
■伊東祐安 ■伊東祐信 ■伊東又次郎 ■伊東祐青 ■伊東祐次 ■伊東右衛門 ■伊東杢右衛門 ■落合兼置 ■米良重方 ■米良喜右介 ■柚木崎正家 ■丸目頼美 ■長倉六三郎 ■長倉伴九郎 ■上別府宮内少輔 ■米良長門守
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■伊東祐安 ■伊東祐信 ■伊東又次郎 ■伊東祐青 ■伊東祐次 ■伊東右衛門 ■伊東杢右衛門 ■落合兼置 ■米良重方 ■米良喜右介 ■柚木崎正家 ■丸目頼美 ■長倉六三郎 ■長倉伴九郎 ■上別府宮内少輔 ■米良長門守
えっ、何それは...(絶句)
島津の武将の戦死者2名に対して伊藤家は伊東祐青を除きすべて戦死
しかも生き残った伊東祐青も5年後また島津家と戦った際にしっかり殺された模様
やはりヤバイ(確信)
九州の桶狭間とも言われているこの戦いでの勝利を皮切りに、島津家は20000の兵で3万の敵を破ったり*1、6000の兵で25000の兵を破ったりして*2九州ほぼ全土を手中に収めました
秀吉の天下統一が成された後も義弘は秀吉の朝鮮侵攻に従い6000の兵で5万の明・朝鮮連合軍を撃退し鬼石蔓子(おにしまづ)と恐れられたり、関ケ原の戦いの最中8万の徳川軍に300の兵で突撃したあと薩摩まで直帰するなど同じ人間とは思えない戦いぶりを見せつけ、戦国時代から400年経った今でも「島津は頭がおかしい」と語り継がれています