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好きな戦国武将の最期

こんばんは!センゴクです

今回はタイトルの通りです、戦国武将の最期について気に入っている話をいくつか書いてみました。

拙い文章ですが楽しんでいただけたら幸いです。

 

 

 

1 松永久秀

この武将はキャラが濃く知名度もそこそこ高いんじゃないでしょうか?

 

最初三好家に仕えた近畿地方の武将で、常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯したと言われ、三大梟雄の一人にも数えられています。*1

久秀は近畿・四国地方に大きな勢力を誇っていた三好家中での発言力を強めていき、天下の副将軍とまで言われた大名 三好長慶の死後は、当時政治の中心だった京都周辺で強い影響力を持ちました。

 

その後織田信長が勢力を伸ばしてくると一度はこれに従いますが、後に信長に対して謀反を起こします。

結局謀反は失敗して追い込まれていまい、久秀が所持する名器の平蜘蛛茶釜を譲れば許すと交渉されましたが、久秀はこれを突っぱね、平蜘蛛を叩き割った後自害したそうです。

 

悪人として語られることの多い武将ですが、型破りなその生き方と彼なりの意地を感じられる死に様で個人的に好きです。

 

 

2 足利義輝

足利義輝は足利幕府第13代将軍であり、剣術にも長けたので剣豪将軍のあだ名で知られる人物です。

 

将軍とは言えども戦国時代は下克上の時代、幕府が開かれたころの威光と力はほとんど失われていました。

 

そんな逆境の中に生まれ育った義輝は必死で周辺の敵対勢力に抗っていましたが、松永・三好勢に拠点の二条御所を包囲されてしまいます。

 

義輝自身も将軍の身でありながら薙刀や剣を用いて奮戦しました。が、多勢に無勢。

最後は二条御所の中で畳を持った敵兵数人に囲まれてしまい、自慢の剣術を封じられ討ち取られました。

 

講談では将軍家秘蔵の名刀を畳に突き立て、切れ味が落ちるたびに刀を取り変えて戦ったという話もあるようです。真偽はわかりませんが、もし本当だったらかっこいいですね。

 

辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」 

夢半ばで散った彼らしい感じがします(こなみ)

日本の武将ではないですがコンスタンティノス11世も義輝と境遇が似ていて好きです。

 

 

3 清水宗治

死に様がかっこいい武将を上げる話では鉄板の武将

 

信長に仕えていた秀吉の中国地方侵攻により宗治の居城である備中高松城も攻められ、水攻めという戦略により城の周辺一帯を水で沈められてしまいました。

援軍として駆け付けた毛利勢も手も足も出せないまま傍観することしかできず、勝ち目も薄いこの戦いで秀吉は宗治の命などを条件に和睦を申し出ました。

毛利方はこの条件を呑むしかなく、宗治は水に浮かんだ城から船を漕ぎ出し、敵と味方が見つめる中で切腹をしました。

その見事な切腹は敵の秀吉が称賛したほどでした。

切腹が名誉ある死に方となったのは宗治の切腹が始まりだと言われています。

 

辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

かっこいい(恍惚)

戦国武将・清水宗治の矜持が感じられます

 

 

4 鳥居強右衛門

戦国時代の足軽

その最期は普段淡泊なWikipediaの文章ですらグッとくるほど。

以下Wikiより省略して抜粋

 

徳川勢の長篠城が敵である武田勢に包囲されていたときの事です。

 

約500の城兵で守備していた長篠城は、武田勝頼が率いる1万5,000の武田軍に包囲され落城寸前まで追い込まれていました。

城主奥平貞昌は最後の手段として、主君徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断しましたが、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近い状態でした。


この命がけの役目を自ら志願したのが強右衛門。

 

夜陰に乗じて城の下水口から出発し、なんとか岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請しました。

この時、幸運にも織田信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着していて、織田・徳川合わせて3万8,000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていました。

 

これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返しますが、不運にも武田方に捉えられてしまいます。

取り調べによって、援軍が来る予定であることを知った武田勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とそうと考えました。

 

そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと城に伝えるよう、強右衛門に命令しました。

強右衛門は勝頼の命令を承諾し、長篠城から見通しのきく場所へ向かいました。

 

しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだのです。

 

これを聞いた勝頼は怒り、その場で強右衛門は殺されてしまいました。

ですが、強右衛門の報告のおかげで援軍が来ると分かった長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと士気を奮い立たせて、援軍が到着するまでの2日間、武田軍の攻撃から城を守り通しました。

 

この話は実はあの有名な長篠の戦の前日譚で、この後織田・徳川連合は見事に武田勢を打ち破ることになります。

鳥居強右衛門はただの一足軽ですが、彼がいなかったら歴史が少し変わっていたかもしれません。

 

 

5 高橋紹運

高橋紹運は九州の大友氏に仕えた武将です。

一度は九州の半分ほどの領土を誇った大友氏ですが、同じ九州の島津氏に大敗を喫したり、大名である大友宗麟キリスト教への傾倒などにより家臣の離反が相次ぎ、勢力が衰退していきました。

 

そんな中でも忠誠を貫いていたのが高橋紹運

島津家の侵攻に対抗するため、岩屋城に籠り抵抗します。

島津家の2万とも5万とも言われる兵力に対して、岩屋城の兵力は763人だけであり、勝敗は目に見えているようでした。

 

しかし、名将として名高い紹運はその采配により島津勢を何度も撃退、圧倒的兵力差にも関わらず半月ほど徹底抗戦を続けていました。

 

そんな戦いの最中、敵である島津方の武将が紹運に「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけました。

 

それに対して紹運は「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵味方双方から感嘆の声があがったそうです。

 

 

6 江里口信常&円城寺信胤

九州の竜造寺家に仕えた竜造寺四天王の内の二人(以下Wikiより抜粋)

 

島津氏との戦い(沖田畷の戦い)で島津家久の奇襲によって龍造寺軍が大混乱に陥る中、円城寺信胤は「我こそは龍造寺山城守隆信なり」と名乗りを上げて敵軍に切り込み、隆信の身代わりとなって戦死したという。しかし、信胤の奮戦の甲斐もなく、隆信は島津軍の川上忠堅によって討ち取られた。

 

主君龍造寺隆信が戦死すると、江里口信常は単身、味方と偽って敵陣に乗り込み、敵の総大将・島津家久の首を狙ったものの、家久の左足を傷つけるに終わり、その場でなぶり殺しにされた。

信常は家久から「無双の剛の者」と賞賛され、一族がいれば召抱えたいと言わしめた。

 

竜造寺四天王は資料によってメンバーが変わることがあり、合計すると5人いることからネットでは竜造寺四天王(5人)とネタにされがちですが、死に様はとてもかっこいいです。

ここでは挙げなかった他の3人のうち2人も主君を守ろうと討ち死にしています。

たとえ劣勢でも主君を守る一心で機転を利かせ、殉死する様は武士の鑑と言えます。

 

 

7 相良義陽

肥後相良家の大名。

同じく肥後の阿蘇家に仕える甲斐宗運とは親友で、相互不可侵を誓い合っていました。

 

が、

薩摩の島津家が大友家を破り、力をつけ始めると相良領へも侵攻し、水俣城を囲みました。

相良義陽は相良の家名を残す為に、領土の一部を差し出して島津家に降伏。

すると島津家は相良家が降伏したのと同じ年に阿蘇家攻めを命じたのです。戦闘民族怖い

相良義陽は南には主である島津義久、北には親友の甲斐宗運という文字通りの板挟み状態になります。

義陽は相互不可侵を誓い合っていたため出陣をためらっていましたが、島津氏からの再三の督促により、もはやその命に逆らうこともできず、宗運と交わした誓紙を焼き捨てさせて出陣しました。

 

甲斐宗運阿蘇神社に収めていた不可侵の誓紙を池に沈めて出陣。


このとき、相良義陽はあえて四方が開けて非常に守りにくい場所に陣を敷きました。

・相良の家を残す為に島津義久の命令に従って阿蘇を攻撃する。
・誓紙を破った自身は死ぬことで甲斐宗運に侘びる。
道を選んだようです。

 

義陽はあくまでも退却せず、床几に座したまま戦死。義陽の首を見た宗運は落涙したと言われています。

 

どちらにも義理を通そうとする姿勢から義陽がどんな性格だったかが何となく伺えますね。

相良義陽は知名度が低い武将ですが、この話は戦国武将達のエピソードの中でも特に好きな話の一つです。

 

 

 

あとがき

書いてて思ったんですが西日本の武将ばかりですね。

僕自身九州の生まれなのでそのせいもありますが、なんとなくこういう話は中部~西日本の武将のほうが多い気がします。

 僕が戦国武将を好きな理由が、こういう生き方をした人たちが現実に存在していたということです。

もちろん実際の話から多少色が付けられていたり、時代の流れの中で尾ひれが付いて話されてたり、当時とは違うところもあると思いますが、資料が残っていたりもするので全くの嘘ではないはずです。

 活字や液晶の中の登場人物とは違い、一人一人に脳があって、家族や友人がいて。世界五分前仮説?

今生きている僕達と同じ人間がこういう生き方をしたんだと考えると、とても勇気づけられるような気がします。

また、今回はかっこいい最期を遂げた武将から選びましたが、思わず笑っちゃうような死に方をした武将も結構います。

生前嫌われ過ぎて討ち死にしたときに味方に喜ばれた武将とか、地震による土砂崩れで滅亡した一族とか。

最後に挙げた相良義陽の親友の甲斐宗運なんかは、主家への忠誠心が強すぎて身内でも怪しい動きをした人間を粛清しまくった結果、逆に身内から恐れられることになり、孫娘に毒殺されたそうです。かわいそう;;

そういうのも調べてみると話のタネになったりするかもしれません、興味を持った方はぜひ調べてみてください!

 

 

 

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*1:真偽については諸説ある